かわいそうな人

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「あの人かわいそう。」

口に出して言わずとも
一瞬心をよぎることがある。


かわいそう
可哀相
可哀想
可愛そう


相手に対して思うのか

自分に対して思っているのか


どちらの場合もあるように感じていますし
相手に対して感情が向いているように見えて
自分の中にある「かわいそうな私」が
反応していることもあるように思います。



使い方としては
・気の毒
・不憫
・哀れ
・痛痛しい
・痛ましい
・同情
・憐れみ
etc


自分以外の人に対して
その気持ちを抱くとき

また
自分に対して
その気持ちを抱くとき




人に対してかわいそうと感じていることは

自分の中にかわいそうの概念を持っていて
そこに照らし合わせて観ているということでもあります。


*概念とは・・・同類のものについて共通部分を抜き出し得た表現。
        対象を表す用語について、内容がはっきり決められている。


かわいそうの概念は
どこから来たのでしょうか?


自分の体験だったり
親や友達、世間の価値観(考え方)に影響されている部分も
少なくないと思います。

例えば
難民キャンプでやせ細った子供たちに対して
支援を募るCM


確かに追い詰められた人に対して支援することは
同じ人として守る道でもあると私は思いますが


支援の方向に疑いを持つことはないでしょうか?


世の中には
善人
悪人


少数精鋭
烏合の衆



少し言葉を並べてみました。



かわいそうに見せかけて
さも正しいことのように導く
そんな人もいます。


そんなマジックを
解き明かすには


自分自身の身体感覚にフォーカスすること


表面、皮膚感覚というよりは
内側の感覚


胃が痛い
頭が痛い
敏腕
腑に落ちる
後ろ髪を引かれる


人の身体を使った言葉が日本に多いのはなぜでしょうか?

身体の感覚こそ最も伝わりやすい表現の方法なのではないでしょうか?


少しずれてしまいましたが


「かわいそう」を記憶しているのは
脳だけでなく
身体の感覚にもある

自分の体験から刻まれた印象に
親や世の中の定義が刷り込まれる。



本当に「かわいそう」なのでしょうか。

「かわいそうな人」と位置づけすべきなのでしょうか。



この世に生をもって生まれ
いらない人は一人もいない。


これは綺麗ごとで言っている訳ではなく



人は腸内細菌に似ていて


善玉菌
悪玉菌
日和見菌

違うタイプの人々が互いに影響を与えながら
最適な環境を作り
進化していく生き物と私は思っています。


大嫌いな人を排除する
相手を力づくで変化させたり
自分の正当性を死守するために敵を作り出す
弱さを演出することで認めさせる
長いものに巻かれ意見を言わない


これでは新しい視点を産むことに繋がらない。



自由闊達な表現が許される場


「かわいそうな人」


本当に居るのは


自分の真価を知ることの出来ない人達ではないでしょうか。


人は価値をもって生まれ
経験の中で愛と共に研磨され
内側の感覚と共に光(真価)を増していく


やさしく
 まあるく
  光になる


安心安全な場所での
対話を通じ
自分自身を知るきっかけを作りませんか?


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